僕は昔から周りに認めてもらうために、勉強も頑張りましたし、ルールを破ったこともないし、とにかく誠実でいることが正しいと信じてやってきました。でも、周りの友達は僕よりも明らかに不真面目で良い加減な人も多いのに、みんな僕よりも幸せそうです。
頑張って来られたんですね。頑張っている自分よりも、もっと不真面目だと思う人が幸せなのが見ていて辛いということですか。
はい。僕は真剣な付き合いを求めているので、みんなのように好きでもない人と付き合うことはできませんし、仕事だって手を抜いたりしません。でも友達の方がたくさん告白されていますし彼女だっています。仕事でも何故か僕よりも不真面目な人が高い評価をもらっていたりします。すごく不公平な気がして、最近頑張る意欲をなくしてしまいました。
なるほど。それは辛いですね。相談者さんはどうなりたいんですか?
もちろん今よりも楽に幸せになりたいです。
わかりました。では一層のこと「良い人」をお休みしてみてはどうですか?
「良い人」をお休み??
そうです。もう少し肩の力を抜いて、周り同様に「良い意味で自分勝手」になってみるんです。今の相談者さんは周囲にとっての良い人を演じているように感じますので、自分にとっての良い人を目指してみましょう。ここから詳しく説明していきますね。
良い人を演じるのは誰のため?
何事にも真面目で誠実、不正などはせずに真摯に物事に取り組む努力家。ましてや人を傷つけないよう配慮も忘れない。
そんな絵に描いたように人畜無害な真面目人間をよく見かけます。少々極端な例でしたが、こんな風に他人からみてとても「良い人」っていますよね。
ですがそんな彼らは自分でも知らないうちに自分を追い込んでストレスを抱えているかもしれません。
努力している自分が報われず、怠けている人が自分よりも幸せそうな境遇にあると、それは悔しい気持ちになることでしょう。
あなたが努力して「良い人」になろうとするのは誰のためでしょうか?
おそらくは周囲からの評価を何よりも気にしているのではありませんか?
- 「不真面目だと思われたくない」
- 「人から好かれるようにならなくては」
- 「求められる人間を目指さないと」
意識していないにしても、どこかでこういった他者からの目線で自身を評価していませんか?
人から認められることが自分の価値基準になっていませんか?
もしそうであるなら、あなたの持つとの「良い人」を一旦お休みさせてみましょう。
よく「良い人を捨てましょう」と進める人もいますが、私はそうは思いません。
他人にとっての良い人というキャラクターは社会で生きていく上で必要なスキルだと思うからです。
要はバランスです。他人から見て「良い人」を演じることに没頭してしまうと疲れてしまいます。
ここではまず「自分にとって良い人」を目指すことで、気持ちを楽に、肩の力を抜いていきましょう。
でなければあなたは一生、他人からの評価を気にして「自分の望まない人生」を送ることになってしまいます。
「良い人」ほど他人を許せないから辛い!
良い人とは、往々にして自分のことを「良い人」「正しい人」だと確信しています。
なので、自分よりも不誠実で間違った人間を見ると許せなくなります。
- 「私の方が頑張っているのにあいつだけ褒められて不公平だ!」
- 「自分はこんなに頑張っているのに、パートナーは遊んでばかりでずるい!」
- 「自分はこんなにも気を遣っているのに、あいつは他人に迷惑かけてばかりで許せない!」
といったように、常に何かに怒りを覚えていることが多いのではないでしょうか?
「自分はちゃんとやっている。自分は正しい。自分は悪くない」
これは典型的な例とも言えます。こんな風に自分が正しいと主張すればするほど、あなたにとっての「正しくない人」が増えていくばかりです。
「自分は正しい」と思っている「良い人」とは、心のどこかで「正しくない人」を求めているのです。
そうでなければ自分の立場が成立しないからです。
だからこそ、不誠実で間違った人間の細部がとてもよく目に入ってくるのです。
逆を言えば、自分同様に誠実で品行方正な人間のことは、さほど気になっていないはずです。
身近に敵を作ることで正しさの価値を証明し、安心したい。
もし、あなたがこういった側面を自覚したのなら、歪んだ「良い人」を手放すチャンスでしょう。
「嫌われたくない」はあなたを縛る呪い。私の実体験を解説。
「良い人」であろうとする人は根底に「嫌われたくない」という思いがあります。
この思いそのものは、人が本能的に恐怖を感じる「孤独」を回避するための正当な感情なので、決して悪い物ではありません。
しかし、このSNSや転職が当たり前になり、人と繋がることがあまりにも容易になった現代において、人は何故そこまで他人から嫌われることを避けるのでしょうか?
他人から馬鹿にされたくない、怒られたくない、嫌われたくない・・・
そういう不安や恐怖に囚われてしまうと、他人の目ばかりを気にして生きていくことになり、結果として、逆に嫌な出来事が集まってきてしまうのです。
子供の頃の私はまさしくこのような少年でした。学校という狭いコミュニティーから弾かれることが怖くてたまりませんでした。
しかし、勉強も運動もできなかった私は、とにかく「馬鹿だけど良いやつ」というキャラクターだけで自分を売り込むしかありませんでした。
しかし、それでも弱い私を忌み嫌う人間は大勢いましたし、どれだけ相手に尽くそうが裏切られることもありました。
その度に思っていました。「こんなに親切にしているのに、どうして」と。
どれだけ「良い人」を演じても報われない。そればかりか演じれば演じるほど「どうして、どうして」と相手を許せなくなっていきました。結果さらに嫌われる結果となってしまったのです。
子供〜学生時代の教訓を生かすため、何をしても無駄なのなら、一層のことこんなキャラクターはやめてしまおうと思うようになりました。
正直投げやりな思いでそうしました。自分から「嫌われてもいい、もうどうにでもなれ」といった態度をとるわけですから、最初は勇気がいりました。
ですが、決意をしたそのときから、私の心は羽が生えたように軽くなりました。
馬鹿にされても良い、嫌われても良い、相手に怒られても良い。
そう思って堂々と生きると、不思議と自信が湧いてきたのです。
「別にこの人に嫌われても、自分の人生に大した影響ないしな・・・」とあっさり割り切ることができました。
すると不思議な物で、相手が異性であろうと年上であろうと、接する時に物怖じしなくなったのです。
私が過去の話から最もお伝えしたいのは「自分ファースト」になる勇気を持つということです。
ただの「良い人」が報われない本当の理由
「良い人」は他人から嫌われないために周囲に合わせ、常に正しくあろうとします。
こんな風に自分を律し今まで努力してきたことでしょう。
「ダメな人間であってはいけない」「役に立つ人間でないといけない」と、辛いことに耐え、我慢を重ねて、ルールを遵守して、正しくあろうと努力してきた立派な方々です。
まさしく日本人のお手本のような人たちです。
しかし、世の中は理不尽なもので、そういった真面目な人ほど、何故か報われないのです。
何故なら、この日本社会そのものが良い人を最低基準にしているからなのです。
つまり、良い人であることは当たり前。ということです。
よく聞く例が、学生時代に素行が悪く不真面目だった人間が、社会に出て更生し、真面目になった途端周囲からの評価が鰻登りに良くなるという現象です。
元々マイナスだった評価は、ちょっとしたことで上がりやすく、点数のつけられ方も加点方式になりやすいのです。
一方、子供の頃からずっと真面目でやってきた人間は、ちょっとしたことでは周囲の高評価は得られにくいもの。それどころか、少しでも不道徳な一面を見せれば「そんな人だとは思わなかった」と評価が下がりやすくなります。
結果、点数はどうしても減点方式になってしまうのです。
つまり「良い人」が点数を上げるためには、「良い人を超える良い人」にならなくてはいけないというハードルの高さがあるのです。
これは「社会人=良い人」という前提のもとに成り立っているからです。評価が上がりにくく、下がりやすい。これが真面目人間に対する社会の評価なのです。
また、「良い人」というのは、やはりどこか演じている雰囲気が出ているものです。
「この人無理しているなぁ」と感じる人を見たことあるのではないでしょうか?
そういう「良い人」というのは、心の距離も縮みにくいものです。相手に嫌われないよう接するので、過度に気を遣いすぎたり、よそよそしくなったり。
相手からすると接しにくさを感じてしまう人もいるでしょう。
一方の、「良い人ではない人」たちは、「別に嫌われても良いや」と開き直っている分、素の自分が出やすく、多少生意気でも飾らないその姿勢が親近感や高評価につながることがあります。
彼らからすれば、失うものがない分ある意味で強気な姿勢が取れるのです。
これがただの「良い人」を演じる人が報われない理由。逆に「良い人」を手放すことで得られる心の余裕です。
本音では自分も「良い人を辞めたい」と思っている
「良い人」が「自分は正しい」と思っていると話しました。
さらに深掘りすると、「自分は正しいと信じ込もうとしている」です。
これは私の実体験から来る話になります。
高校生の頃、私は福祉科に所属しており、学校内ではそこそこ良いとされる成績を収めていました。
素行が悪かった普通科と比較されることが多く、教員などからは「校内のお手本になるように」と正しくあることを教えられました。
それまで劣等感しか持っていなかった私は、大人たちから期待されていることが嬉しく、求められる正しさを追求していました。
しかし、大人たちからは褒められる一方で、一部の同級生らからは煙たがられる様子も見られました。時には名前すら知らない他クラスの生徒にすら嫌われることもあったのです。
それでも正しい言動こそが唯一無二の良いことで、間違いはないのだと信じていました。
ですが、その一方で、自分よりはるかに緩い学校生活を送っている周囲の同級生らの方が、何倍も楽しそうに満喫しているのをみて、羨ましく感じていたのも覚えています。
同時に耐えがたいジレンマを抱え、私は彼らを否定するようになっていました。
まさしくここまで綴ってきた内容そのままの人でした。
そして今だからこそわかるのですが、私自身も本当はそういった楽で緩い学校生活をしたかったのだと思っています。
もちろん、自分を律して得られた高い評価は、その後の進学にも大いに貢献したのは間違いありません。
ですが、それと同時に1度しかない高校生活を、もっと普通に楽しみたかったという思いがあるのも事実です。だからこそ、実際にそれをやっている人たちが憎たらしかったのかもしれません。
私がここで最もお伝えしたいのは、正しさを求めすぎると、自分のやりたいことではなく、「やった方がいいこと」を無意識に優先してしまい、後悔につながるという経験談です。
まとめ
いかがでしたか?今回は「良い人」を演じることで行き着くデメリットや、手放す必要性について解説しました。
誰もが好かれる人間になりたい、嫌われたくない、そう思いますよね。私もそう思います。
ですが自分に嘘をついてまで、辛く演じ続けると、次第に自分のことが嫌いになってしまいます。今回の投稿は、そんな気づきを促す目的で書かせていただきました。
もし自分にも思い当たる節があれば、今回の投稿を是非参考にしてみてください。
今回の投稿が、真面目すぎて疲れている読者の方々にとって、少しでも気持ちが楽になる、その一助になれば嬉しく思います。